アンチェロッティ

ミランは、今シーズンから公式用のスーツに、ドルチェ&ガッバーナを採用している。さすがに若者に人気のあるブランドのスーツだから、マルディーニやネスタ、シェフチェンコ等が着用すると、ファッションショーの舞台から抜け出して来たようでカッコいい。しかしこのスーツを監督のアンチェロッティが着用しているのを見ると、喜劇役者がオシャレをしているようで笑ってしまう。特にシャツの色が黒なので、喜劇映画のマフィアみたいになってしまうのだ。

アンチェロッティも選手時代なら、このスーツ姿がけっこう決まっていただろう。彼は現役引退後、随分太ってしまった。・・・と、書き出しから、アンチェロッティをからかうような文章になってしまったが、アンチェロッティは僕の好きな監督の1人である。彼の監督としての見せる手腕が好きというよりも、インタビューでの、どちらかというと口下手だが、実直そうな受け答えと、ことに彼の口から発せられる毒の含まないユーモアを聞いていると、人間的に好感が持てるのだ。セリエAの監督中、好感度NO・1といっても良い。選手時代のプレーも実直そうだった。アンチェロッティがローマで、選手としてセリエAデビューをしたのは、1979/80シーズンだった。

当時美術学校に通っていた僕は、通学するのに、画材を忘れても、ピンク色のスポーツ新聞、ラ ガゼッタ・デッロ・スポルトだけは、必ず小脇に抱えていた。当時も今も、シーズン終盤に入ると、翌シーズンの補強選手の話題が紙面をにぎわすようになる。1978/79シーズン終盤のラ ガゼッタの紙面に、「ローマがセリエC1のパルマから期待のホープ20歳のオフェンシブハーフ・アンチェロッティを獲得」というような記事が出ていたのを憶えている。ミランでのポジションからアンチェロッティはディフェンシブハーフと思いがちだが、ローマでデビューした頃は、トップ下に近いポジションでプレーしていた。1年目の成績は27試合に出場し3ゴールを入れている。この頃のイタリアサッカーは、まだまだカテナッチョ盛りし頃だったから、決して少ないゴール数ではない。
彼の性格を見ても判るようにプレーに狡さはなかったが、負けん気が強く、激しいチャージをも厭わないタイプの選手だった。スウェーデン人のベテラン監督ニルス・リードホルムに率いられたローマは、翌シーズンの1980/81シーズンからスクデット争いに加わるようになり、トラパットーニ率いるユーベと、数シーズンに渡り首位攻防戦を演じるようになる。そしてイタリア代表が3度目のWカップ優勝を飾ったスペイン大会の後の1982/83シーズンに、ローマは41年振りのスクデット獲得を果たした。このシーズンのローマの中心選手は、ペレがWカップスペイン大会の最優秀選手に選んだ右サイドのミッドフィルダー・ブルーノ・コンティ、ブラジル代表選手ファルカン、FWのロベルト・プルッツォ、インテルから移籍したオーストリア代表の司令塔・プロハスカ等だった。さてアンチェロッティだが、中盤のレギュラーとしてスタートしたが、第10節のフィオレンティーナ戦で右膝の靭帯を断裂する重傷を追い、数ヶ月の戦線離脱を余儀なくされるという、不運なシーズンを過ごした。ローマで8シーズン在籍した後、アンチェロッティはアッリーゴ・サッキが率いるミランに移籍する。ミランでの活躍は、今さら説明の必要がないだろう。後の監督としてのアンチェロッティに大きく影響を与えたのは、イタリアサッカーに革命的といえる戦術と意識の両面で、計り知れない影響を与えたサッキが第1に上げられるが、ローマ時代の監督リードホルムが与えた影響も大きい。時として、選手の反感を買った完璧主義者のサッキと違い、リードホルムは選手の心を掴むのが非常に巧みな監督で、ゾーンディフェンスを早くから取り入れた監督だった。リードホルムのサッカーは、どちらかというと、ブラジル代表に近い、ゆったりしたペースのサッカーだった。ともかくセリエAデビューからゾーンシステムの洗礼を受けた事が、後にサッキがアンチェロッティの獲得を強く要望することとなり、アンチェロッティもサッキが実践する理詰めのサッカーに対して、無理なくスムーズに馴染められたのだろう。ミランでの1991/92シーズンを最後に選手生活に終止符を打ったアンチェロッティは、1994年Wカップアメリカ大会にイタリア代表監督サッキのコーチングスタッフとして参加し、決勝に進出したイタリア代表チームをサポートした。

クラブチームの監督としては、1995/96シーズンにセリエBのチームレッジャーナの監督に就任する。シーズン前半はサッキ譲りのシステムが中々機能せず、下位に低迷していたが、徐々に効果が現れ始め、レッジャーナは4位で終了し、セリエA昇格を果たした。 翌シーズン、アンチェロッティは監督デビュー2年目で、セリエAの上位チームの常連となったパルマの監督として、セリエAデビューをする。この当たり、アンチェロッティはローマとミラン(特に)での選手時代の経歴で随分得をしている。前回エッセイで紹介したリッピの経歴と比べてみると良く分かるだろう。

アンチェロッティはパルマ監督の1年目に、リッピ率いるユーベと首位攻防戦を繰り広げ、惜しくもスクデットは逃すが、2位という好成績で終了する。しかしスクデットを期待された翌1997/8シーズンは、6位で終了し、ファンの期待を裏切る結果となった。アンチェロッティはこのシーズン限りでパルマ監督を辞任する。 1年の休養期間の後、今度はローマ、ミランでの選手時代、監督としてのパルマ時代に常にライバルだったユーベの監督に就任する。この就任にユーベサポーターから烈しい抗議運動が起るが、アンチェロッティは黙々と監督業に専念し、そして徐々に、アンチェロッティの実直な人柄が、ユーベサポーターにも理解されていった。

しかしユーベでは、カンピオナートで2シーズン連続して2位と後一歩でスクデットに到らなかった。このユーベでの成績と、パルマでの1年目の2位の成績が、アンチェロッティに「万年2位監督」のレッテルが貼られる原因となった。

ユーベと翌シーズンも監督を務める契約があり、前日まで役員のモッジがアンチェロッティの解任はないと保証していたにもかかわらず、アチェロッティは辞任させられ、ユーベの新監督にリッピが再び就任する。このユーベの仕打ちにマスコミ及び世間から、アンチェロッティに対して同情の声が上がったが、アンチェロッティの口からは、一言もユーベを非難する言葉は発せられなかった。
もしこれがアンチェロッティではなく、リッピやカペッロだったなら、いや誰が監督であったとしても、ユーベやモッジに対して、嫌味の1つぐらいは言っていただろう。 好感度NO・1監督の面目躍如である。そして2001/02シーズン途中から、アンチェロッティが最も望んでいた古巣ミランの監督に就任、チャンピオンズリーグ優勝、昨シーズンにはスクデット獲得と、「万年2位監督」の汚名を返上した。


最後にアンチェロッティと師匠であるサッキとの違いは、プロ選手としての経験が有るか無いかの差であろう。飽くまでも理想を追い求めたサッキに対し、アンチェロッティは選手時代の経験から、状況によって理想を棄て、現実を取る術を心得ている。 (了)