ファビオ・カペッロ

イラストでファビオ・カペッロを少し格好良く描き過ぎたかもしれない。しかし勝者は常に格好良く見えるものだ。特にユヴェントス監督に就任してからのカペッロには、勝者としての落ち着きと風格をよりいっそう漂わしているように思える。

ローマ監督時代のカペッロを憶えているだろうか。試合中のベンチで感情を露わに声を張り上げていたカペッロが思い浮かぶのだが、試合中のユーヴェ・ベンチのカペッロからは、このような振る舞いが稀にしか見られなくなった。これは年々実績を積み上げてきたカペッロの自信と余裕の顕われでもあるのだろうが、ユーヴェというエリート意識(一般にスティーレ・ユーヴェと呼ばれているが)を強く持ったクラブの影響があるからかもしれない。
それにしても2シーズン前にカペッロがユーヴェ監督に就任する事を知った時は、僕だけではなくイタリア中が驚かされたものだ。ローマ監督時代に、何度もユーヴェ戦での審判の判定をめぐってユーヴェ首脳陣と非難の応酬をし、インタビューでも「私がユーヴェ監督に就任することは絶対にない。」と断言していたのだから。ミラン監督時代からカペッロのアシスタントコーチとして永年連れ添っているイタロ・ガルビアーティさえも、この電撃的なユーヴェ監督就任のニュースに「ファビオが、もう直ぐ大きな動きがあるのでそのつもりでいるように、と言っていたから、ローマ監督を辞任して他のクラブの監督に就任するのだろうなと覚悟はしていたのだけれど、まさかユーヴェ監督に就任だなんて全く予想外だったよ。」と語っていた。この移籍の仕掛け人は、ユーヴェの役員である煮ても焼いても食えない男・ルチアーノ・モッジだった。モッジについてはリッピのエッセイで少し触れているので、そちらを参照して頂きたい。

まあどんな監督でも、ユーヴェのような名門クラブから監督の要請を受ければ引き受けてしまうのだろうが、しかしカペッロがその前のシーズン・それも半年ほど前に、上記したような発言をしていたので、マスコミ全体・イタリア全体が意表を衝かれた形だった。
しかし現役時代のカペッロを思うと、ユーヴェ監督が一番相応しいと言えるかもしれない。現役時代のカペッロはスパル、ローマ、ユーヴェ、そしてミランでプレーをしたのだが、選手として最も輝いていたのはユーヴェ時代だった。監督としてのカペッロしか知らない人は、彼の下あごの骨格が発達した意思の強そうな厳つい顔から、現役時代のカペッロが強靭で激しい当たりが身上のディフェンシブハーフでプレーしていたと思うかもしれない。

しかし現役時代のカペッロは、それとは正反対の非常にポジションセンスの良い、下がり気味のゲームメーカーとして活躍していた。当時のスター選手であるミランのジャンニ・リベラやインテルのサンドロ・マッツォーラのように特別秀でたテクニックを持っていたわけではないのだが、常にボールの来るところに表われ、そしてボールを持っても決して持ち過ぎることのない、球離れの良い安定したプレーヤーだった。ミッドフィルダーとしてはゴールセンスも良く、ユーヴェに移籍2年目の71/72シーズンには9ゴールを入れてスクデット獲得に貢献している。ユーヴェの選手としては11ゴールを入れたセンターフォワードのアナスタージに次ぐゴール数だ。当時のセリエAが1シーズン30試合でカテナチオ(南京錠の意味で鍵を掛けたように守りを固める戦法の名称)全盛時代だった事、そしてこの9ゴールにはPKによるゴールが含まれていない事を考えると、素晴らしい成績だといえる。カペッロのゴールで一番有名なのは、1973年11月にサッカーの聖地・ロンドンのウエンブレースタジアムで行なわれた親善試合イングランド対イタリア戦でのイタリア代表として入れたゴールだろう。この試合までイタリア代表はイングランド代表とのウエンブレーでのアウエイマッチに勝利を収めた事がなかった。だから親善試合とはいえ、ウエンブレーでの試合はイタリア中の注目を集めていた。1972年10月の対ルクセンブルグ戦から9試合無失点を続けていたイタリア代表は、この試合でも堅い守りでイングランドの攻撃を封じた。そして0−0で迎えた後半41分に速攻からアタッカーのキナリアが右サイドに攻め込み、ゴール前に現れたカペッロにアシスト、カペッロが冷静にボールに合わせて決勝ゴールを決め、歴史的な勝利を収めた。カペッロのイタリア代表での成績は32試合8ゴール。

76−77シーズン前にカペッロは6シーズン(スクデット3回)在籍していたユーヴェを去り、イタリア代表の強靭なディフェンシブハーフだったロメオ・ベネッティとの交換トレードでミランに移籍した。このライバルクラブとのイタリア代表選手同士の交換トレードは当時話題になったものだが、31歳のべネッティより1歳年下のカペッロを獲得したミランの方が得をしたと考える人が多かった。しかしミランに移籍したカペッロはユーヴェ時代のプレーが影を潜め、逆にベネッティはユーヴェでも活躍を続け、アルゼンチンで行なわれた78年のWカップのイタリア代表にも選ばれている。

カペッロはミランでもスクデットを1回獲得しているが、8試合に出場しただけで、もはや影の薄い存在となっていた。しかし、現在監督として頂点に立っているカペッロの原点・出発点といえるのは、このミランへの移籍だろう。カペッロは現役引退後ミランのスタッフとしてクラブに残った。そして最初の転機は86/87シーズンに訪れる。このシーズン前にシルビオ・ベルルスコーニがミランのオーナーに就任し、シーズン第26節でベテラン監督ニルス・リードホルムを解任して、カペッロをシーズン終了までの後任監督として起用した。カペッロはベルルスコーニの期待に応えて、カップUEFA出場権獲得にチームを導いた。シーズン終了後、カペッロはベルルスコーニの勧めで、コーチングスタッフとしてだけではなく、マネージメントを学ぶ為に、当時ミランが保有していたアイスホッケークラブのディレクターなどを経験しながら数年過ごす事になる。翌シーズンからミランの監督に就任したのは、当時まったく無名に等しかったアッリーゴ・サッキである。その後のサッキに率いられたミランの活躍については、説明する必要がないだろう。

しかし世界のサッカーに衝撃を与えたサッキのミランといえども、栄光はそう長く続くわけではなかった。サッキはミランを去り、イタリア代表監督に就任、サッキの後釜としてベルルスコーニが選んだのは、86/87シーズンの数試合以降、監督業から離れているカペッロだった。この選択に首を傾げたのはマスコミだけではなかった。ミランのキャプテンだったフランコ・バレージも「冷めたスープを温め直すようなもの。」とカペッロの起用に疑問視するような発言をしていた。
しかしカペッロはサッキの残したチームをベースに、より現実的な負けないチームを構築し、3連続スクデットを含む6シーズンで4回のスクデット獲得とチャンピオンズリーグ優勝1回という偉業を達成した。カペッロはミランを去った後も(途中で再度ミラン監督に就任したカペッロは結果を残せず1年で辞任しているが)、レアルマドリー、ローマ、そして昨シーズンのユーヴェと3つの異なるクラブでもリーグ制覇を成し遂げ、名実とも世界的名監督と賞されるまでになった。

最後に、サッキにしろカペッロにしろ、ベルルスコーニの監督を選ぶ眼力には脱帽するしかない。この両監督とも、ベルルスコーニに見出されていなかったなら、監督としての彼等の道程にこれほどの栄光が待ち受けてはいなかっただろう。 (了)